反証の意義について思う事

私がこのブログに記載している先端の情報や研究や、あるいは優れた思想などは突き詰めて考えると、それらを深く研究してきてくれた先人たちの努力の賜物と考えており、自分自身もそれらの学び舎で学習している学徒の1人だといつも自戒しています。

科学者の世界で行われている「反証による理論構築」という方法や、哲学者の間で交わされる「ディスカッション」などは表面的には「君の意見は全て間違えている!、私のこの意見が正しい!」といわんばかりの印象を受けるが

よくよく考えてみるとその「反証」というものは、こちらの意見や考えが全てが間違っているといっているわけではなく、「主張する意見やデータによる解析があなたの主張では足りていないのではないか?」といっているに過ぎないことが多いのではないかと思います。

「反論」を受けると普通はつい「自分の意見すべてが間違っている」と考えてしまいやすいとは思いますが、自分の意見の全てを「全否定」しているのではないと

確かにそのような反論サイドには、意見やその論拠の足りないところをまるで重箱の隅をつつきながら相手を言い負かして、その言い負かしている自分は相手よりも上なのだとでも言いたげな「無意識の劣等感による渇望」に突き動かされてそのような意見を述べる人もいるとは思いますが、このような人の「コンプレックスの闇」とでもいうフラストレーションからは距離を置くという事は必要になるかもしれませんが

相手の「反証」が客観的な情報を基にするデータであってそれが納得できるものであるなられば、それは自分の足りないところの補正になり、自分の打ち立てる論拠がその足りないところの穴埋めになることに、よりよくなるものになるとだと思います。

「反証」されるという事は自分の論拠の足りないところの微調整であって、最初に打ち立てた論拠そのもの全てが間違っているのではないと割り切って考えることは、より建設的な結果を生むきっかけを得るのだという事は大切であると考えています。

 

(補足)

①「反証」は確たる証拠をもってその論拠の間違いを指摘するという立場でないといけないというのが前提です。客観的データを証拠に打ち立てたその論拠すべてが間違っているという事は滅多にないのではないと思われます。

②当然「自分の主張」も客観的テータをもとにした分析と解釈でなくてはならないと思います。

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